ごちゃまぜにゅーす

副業、IT、ニュース、トレンド、日記、興味があることをごちゃごちゃと書き記していきます。

リオ オリンピック柔道を見て。柔術は柔道に柔道は柔術となる。

f:id:astrayroad:20160809200044j:plain

リオオリンピックが開幕し、連日熱い闘いが繰り広げられています。

 

私は以前、多少格闘技をやっていたので、柔道を見るのが好きです。

 

しかし、今の国際大会の柔道はJUDOだとして、日本の本当の柔道ではない。との意見をよく見聞きします。確かに最近の国際大会の柔道は、柔道本来の一本をとりにいく柔道ではなく、如何にポイントを稼ぎ、優勢勝ちを収めるかという方向に大きくシフトしているような気がします。

 

さらには外国人選手の力任せの滅茶苦茶な投げやレスリングばりのタックルなどもよく見られました。タックルに関しては国際ルールで禁止になりましたが、柔道でも似たような諸手刈りという立派な技があるのですが、初手で組まずにいきなりタックルにいくような選手が増えたため、禁止となったようです。

 

本来の講道館柔道ではなく、JUDOとなることに憂慮する声も聞こえてきそうですが、本来、柔道というのはそれまで日本に存在した古流体術、古流柔術をアレンジし、安全性を重視しながら、広く多くの人々に学んでもらいたいと想い、創始者の加納治五郎師範が創始した武道です。そう考えると、時代の流れと共に、今や世界中の人々が学ぶJUDOになったことを一番喜んでいるのは、実は加納治五郎師範なのかもしれません。

 

日本古来の格闘技。柔術

 

柔術とは柔道と似たような響きであるため、投げ技や寝技を主体としていると思われますが、それは違います。柔術という呼称で呼ばれ始めるのは、戦国時代が終わり、日本が太平の世になり始めたころで、それまでは一般的に体術や組討ち、捕手などと呼ばれており、主に合戦時に武士が相手を組み伏し、首を取るための技術として用いられたり、人を捕えるための技術として用いられたりと、対人であることは同じだが、武器も使用すれば当身、すなわち打撃もあるなどの、今でいう本当になんでもありの総合格闘技に近いものでした。

 

柔道の出現

 

明治15年。天神真楊流、起倒流柔術を学んだ加納治五郎師範が、講道館を創立。講道館では武術の継承以外にも、武を通じた教育、すなわち道を示すという概念も盛り込まれました。これが柔道の始まりです。(柔道という名前自体は、別の流派も使用していたため、柔道の名称自体は加納師範のオリジナルではない)

 

柔道は元々、加納流柔術とよばれ、柔術の一流派としかみられてはいませんでしたが、明治22年に警視庁で行われた柔術との試合で講道館柔道が勝利します。これにより、柔道は警視庁の必須科目となり、全国的に広まったというのが通説ですが、これにはいろんな意見もあり、真実は解りません。しかし、日本古来の柔術はその存在が縮小し、代わりに柔道が全国に普及していったのは事実です。

 

海を渡る柔道

 

f:id:astrayroad:20160809211158p:plain

 

明治37年。一人の男が渡米しました。男の名は前田光世

 

前田光世は、世界に柔道の強さを示すためにアメリカで巨漢のアメリカ人を相手に他流試合をやりまくりました。身長わずか164センチの男が、巨大なアメリカ人を次から次に撃破していきます。やがて彼は、打撃を覚え、関節技を覚え、次から次に闘いを行います。そして遂に日本の裏側に辿りつきます。

 

そこがブラジル。そしてここで柔道が再び柔術となり、そして日本格闘技に襲いかかるのはもう少し後の話し。

 

 

コンデ・コマグレイシー

 

ブラジルに渡った前田光世は、当時使用していたリングネームのコンデ・コマの名称で呼ばれていました。

 

ある日、コマの元を訪れた一人の男、その男は地元の名士で、名はガスタオン・グレイシー

 

彼は自分の二人の息子にコマの技術を教えてほしいとやってきました。

 

その息子の名はカーロス・グレイシーエリオ・グレイシー。カーロスは柔道をグレイシー柔術として完成させ、またエリオは柔道家木村正彦と激闘を展開する男。そしてあの400戦無敗と言われる男。ヒクソングレイシーの父となる男です。

 

エリオVS木村 グレイシー柔術VS講道館柔道

 

前田柔道を習得、更に前田柔道に独自の技術を追加し、遂にグレイシー柔術を完成させたエリオの兄、カーロスは、かつてのコンデ・コマのように自らの柔術を広めるため、エリオと共に他流試合を行っていました。

 

グレイシー柔術は、立ち技重視の講道館柔道とは違い、寝技、関節技を多用し、相手を倒します。

 

カーロスとエリオは無類の強さで次々に相手を倒していきます。そんな中、一人の日本人柔道家と対戦することになります。男の名は木村政彦。「鬼の木村」と評されるほどの男です。

 

因みに木村政彦と聞いて、力道山にボコボコにやられるシーンをテレビの歴史的シーンみたいな番組で見たことがある人もいると思いますが、あの試合に関しては色んな事情があるのです。 

 

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

 

 

この本のタイトルが全てを物語っていますね。

 

1951年。エリオと木村の試合は、木村がエリオを圧倒。木村の腕がらみがエリオの腕を完全に捉えますが、エリオはギブアップをせず、木村もエリオの腕を折ります。しかしそれでもエリオはギブアップをしなかったようで、後に木村はエリオの闘争心に「試合に勝ったが勝負の執念は完敗」と言わしめています。

 

腕がらみ

f:id:astrayroad:20160809213453p:plain

 

やがて外国では、この腕がらみをキムラロックと呼ぶようになるのですが、それはこのエリオVS木村が起源といわれます。

 

 

現代に現れた柔術

 

エリオと木村の激闘から40年。日本ではプロレスが隆盛を誇り、グレイシーという名も、柔術という言葉も忘れられていたころ、アメリカで一つの格闘技の大会が行われました。

 

本当に強い格闘技はなにか?という名目で開かれたその大会は、ルール無し、レフェリー無し。目つき、噛みつき、金的以外は全てOKという究極の格闘技の試合。

 

UFCというその大会は、後に世界一の格闘技団体になるのですが、当時は危険極まりない残虐ファイトでした。

 

体重差による階級分けもなく、無差別で行われたその大会で無類の強さを見せ、優勝した男。ホイス・グレイシー

 

エリオの息子であり、グレイシー柔術の継承者である彼は柔術の技術を駆使し、全ての試合を一本勝ちで極めて優勝します。

 

そして彼は言います。「兄のヒクソンは私の10倍は強い」と。

 

日本に古代から伝わる柔術が柔道となり、海を渡りグレイシー柔術として世界に現れる。そしてそのグレイシーが日本格闘技を殲滅していくのですが、疲れたのでまた気が向いたら書きます。

 

オチがなくてすいません・・・